霧の掛かる朝。
湿けった質量のある空気が、風もなく停滞している。

こんな日は、季節を謳歌する夏鳥の歌も少ない。

だただ、高木の山法師の花が視界に入る。
朝霧の中でも、一生を全うするかのように、満開の花。

こんな朝は、昨日の温度が残る、守られた室内で、白湯の温かさが身体に染み渡り有り難い。
間も無くすれば、停滞した空気が循環を取り戻し、覆い被さっていた朝霧もとれ、梅雨の合間の初夏を思わせる太陽が顔を見せるはず。
霧の掛かる朝。
湿けった質量のある空気が、風もなく停滞している。
こんな日は、季節を謳歌する夏鳥の歌も少ない。
だただ、高木の山法師の花が視界に入る。
朝霧の中でも、一生を全うするかのように、満開の花。
こんな朝は、昨日の温度が残る、守られた室内で、白湯の温かさが身体に染み渡り有り難い。
間も無くすれば、停滞した空気が循環を取り戻し、覆い被さっていた朝霧もとれ、梅雨の合間の初夏を思わせる太陽が顔を見せるはず。
雲は拡がるも、青空の見える空。
梅雨の最中にしては、良いお天気。
庭の花が咲き誇っている。
数本ある庭のえごの木、造園屋さんの圃場から、鳥が実を運んで生えたものの様。
この夕すげ、軽井沢で採取され、皇居で育てられていたものが、軽井沢植物園で配布された事があり、それを知人の別荘の庭で株が増えたものを譲って貰った。
山法師、毎年、森の中にひときは明るく、滝が出来た様に咲き誇る。
花の匂いがかすめて行く、夏至の朝。
現場の帰り道、スーパーに寄ったら、黒舌がショーケースの中にあり、夏を感じる食材、嬉しくなって買って来た。
「旬を食べる。」
食品の保存技術が向上した現代だからこそ、採れたてを「そのときに頂く」、そんな事が贅沢になった気がする。
我が家に来る道路の脇に、淡竹が自生している。
自生といっても、先人が、その竹を「資材」として農作業や家造りに利用しようと植えたものだと、容易に想像ができる。
だから、自生ではなく、正しくは植林かもしれない。
その副産物が筍。
淡竹の筍は灰汁は強くなく、身は固くなく、軽く下茹ですると、色々な料理に使うことが出来る。
淡竹の穂を、山葵醤油で頂く。
軽井沢の初夏を感じさせる、贅沢な一品。
山葵醤油でなく、春先に仕込んだばかりの若い味噌を当てても、捨てがたいフッレッシュな味わい。
淡竹でメンマもできる。
少し唐辛子を煽って辛口にすれば、食卓の酒も進む。
そんな事で、この時期は楽しみで、竹林の林床を見渡す。
家に誰もいない忙しい昼に、「簡単に、」と思って握った筍御飯の塩握り、味わってみれば飛び切りの御馳走。
現代だからこそ、季節に寄り添う、という贅沢。
大工さんに誘われて、木挽きを見学に行って来た。
機械化された、製材所がなかったときの技術。
鋸 (のこぎり) の象徴的な形の、大きな鋸。
大鋸(おが)と言うらしい。
腕に覚えのある、何人かの大工さんが、集まった。
中には、こんな数の大鋸を車に持参した大工さん。
朝から挽く事、15時位には、上の板が動いた。
息を呑む瞬間、木との初対面。
簡単に調べたが、今から500年前には、木挽きの技術が確立されている。
そして、今、僅か数十年で、この技術がなくなろうとしている。
大鋸を挽いている大工さん、素手で木との対話、
「ここは堅い、節かな?」
ダイレクトに木からのメッセージ。
沢山の大鋸を持っている大工さん、
「簡単に挽かせてくれた木ですね。」
自分達は、あくまでも受身の姿勢。
挽いてやったのではなく、挽かして頂いた。
ケヤキの成長途中で、環境が激変したと思われる跡。
もしかすると、浅間山の天明の噴火か?
木挽きの歴史と、環境変化、推定樹齢300年のケヤキ、まるで、タイムカプセルを開いたのかのよう。
早起きして、居間に降りる階段から眺める景色。
淡く回ったライトが、とても、柔らかい光景を与えてくれる。
バックコーラスは、艶やかにクロツグミの囀り。
手前の木が、肝木の白い花が散り掛け。
奥の白い花の山法師が、開花を始めたところ。
その手前のえごの木も、白い花の蕾を持っている。
軽井沢では、高木が隆盛を極め、人間の住んでいる地表が、まるで、深海の底の様。
ひっそりと深海で過ごしている雰囲気。
そして、夏を彩る白い花。
とても軽井沢らしい瞬間。
野地が張られた。
この古い建物も良く考えられておりまして、一番外の部分が下屋になっていて、その部分は2階が載っていないので、解体が容易で、今回は、その部分の木造の躯体を作り変えた。
鉄筋コンクリートの新設された基礎が高くなっている部分が、建物の北側の急所。
今回は、その部分を薪風呂を備える計画を立て、高基礎と薪風呂の備えの一石二鳥とした。
この部分は、北から山が迫っており、時間の問題で土が堆積すると推察される。
全て地物の杉、まさに、「地産地消」。
追い掛け大栓継手、引っ張りに強い継手で、桁に最適。
地震の水平力を受けたとき、建物が変形し、桁の部分に引張り力が掛かる。
桁の納まり、折り置き。
柱は重ね臍で、頭には楔。
破風・鼻隠しは手斧で仕上てもらい、手仕事らしいナイフマーク。
我が家の敷地に、家を建てる前に、大きな栗の木がありました。
家を建てる為に伐採した後、その切り株に大きな蟻の巣がありました。
長男は幼いときに、その根の虚に肘まで突っ込み、肘から先を蟻に一斉に噛まれて騒いでいた事を思い出します。
彼はなにを考えていたのか、今でもわかりません。
それから彼此15年程が経ちまして、梅雨時期の蟻の郡飛が、我が家の季節の風物詩になっております。
「おっ、今年も来た!」
そんな感じです。
羽蟻と言っても、これは黒蟻の群飛で、シロアリの様に家を食い荒らす訳ではなく、むしろ、シロアリを捕食する役目の蟻です。
自然は絶妙のバランスを取りながら吊り合っております。なので、我が家ではこの蟻に薬剤を掛けて駆除する事はしないようにしております。
絶妙なバランスなところを押すと、一時は押すことは出来ますが、それは揺らぎの中で、その後、押し返される事が起こると思います。
自然には、極力、力を加えず、緑の中で静かに過ごしたいのです。
軽井沢の森の中から、今年も順調な季節の廻りに感謝です。
左官屋さんをはじめ、大工さん、設計屋の私も浴槽に手を掛けております。
左官屋さん、
「もっと軽い浴槽があるんだよ!」
「人造大理石だっていいじゃん!」
兎に角、琺瑯バスが重いので、色々なお話しが出て来ます。
一昨年だったか、琺瑯バスの東京営業所の所長が、我が事務所にご挨拶に来た事がありました。
納期が長くなっていたところで、所長は、お詫びを兼ねたご挨拶にいらっしゃいました。
なんでも東京オリンピックに向けて、高級ホテルが建築ラッシュで、そこに、琺瑯バスが取られて生産が追い付かないとの事。
1泊に諭吉さんが10枚も要る様な高級ホテルでは、ユニットバスはおろか、人造大理石でも駄目な様です。
リッツカールトンやフォーシーズンでは、琺瑯バスと自然石かタイルな様です。
皆さんのご協力で、現場に納まった琺瑯バス。
上部は木曽のサワラです。
重くて施工が難航しますが、それだけの価値のあるものの事と思います。
上野村の改築の現場、北側の建物に悪い諸条件が重なる部分に、鉄筋コンクリートで基礎を立ち上げ、内部は薪風呂に使用という計画です。
なんといっても、建物を持ち上げといて、その下で、基礎工事をする荒業、どうにか、無事に柱が基礎の上に載りました。
これ以上、建物を持ち上げる事ができないので、雇い臍の部材を製作して、3mm位、多めに持ち上げた柱とその部材の下に土台を水平に滑り込ませます。
あとは介している部材と土台をダボで縫いさわせる作戦です。
柱が浮遊している状態を解消して一安心です。
計算で出ない部分は、現場で測定して、合わせて行きます。
躯体の手刻みを出来ない大工さんでは、古民家の改修は、まず、出来ないと思います。
出来る大工さんが残っていて、良かったです。
小胴付き長臍差し込み栓打ちです。
安定の木組み、情緒の安定にも是非どうぞ。
内装が進んでおります。
国産杉の無節の板、和室の天井はそうしました。
畳のお部屋は、一段、格式が上がる感じと思います。
設計時点では、居間の吹き抜けの天井を無節で、張ろうかと思いましたが、現場で職人さんと板の柄を合わせながら確認しました。
登り梁と母屋が建築当初のもので、ここに無節のきれいな板を合わせると、梁と母屋の古い表情が浮き過ぎます。
それでは、居間に絡む部分の腰壁と置き換え、張りました。
少し大らかな表情と、少し締まった表情のある壁、良い感じだと思います。
冷蔵庫や洗濯機を置く部分は裏方で、節有りの国産杉の板です。
無垢の板は、バランスが難しいものです。
それではと、無節ばかり出揃えると、実生活と浮いたものになることと思います。
一つの風景の中に、複数の表情の景色を持った板が混在する。
なんとなく、落ち着く感じ。